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その時歴史が動いた 「武田家滅亡の謎」

今週の「その時歴史が動いた」は
武田家滅亡の謎に迫る
でした。
今まで武田家滅亡の原因は、武田勝頼の無謀な戦略のため・・・というのが説でしたが、その原因の一つに新しい事実が発見されたそうです。

織田信長の謀略

強大な武力を誇る武田家を内部分裂させ崩壊へと導いた「信長の謀略」・・・なかなか興味深い内容だったなぁ~。
【驚き1】信玄の跡を継いだ勝頼
「甲陽軍鑑」の中に記されたことなのですが、
「勝頼の母は諏訪家、これは家臣筋にあたる。ゆえに勝頼自身も頭領としてではなく、あくまで家臣の一人として見られていた
「信玄の遺言の中に『勝頼は信勝が16歳になるまでの代理である』とある」
ということがあったそうです。こうなると、信玄の跡を継いだとしても、家臣団の間では、たやすく勝頼に従う者はいなかったと思われます。信玄ゆかりの重臣達を束ねねばならなかった勝頼の苦労が並大抵のものではなかったはずでしょう。

【驚き2】勝頼の戦績・政略
かの武田信玄ですら落とせなかった城を落とし、信玄時代よりもさらに領土を広げたということからも、勝頼という人物が無能ではなかったということが伺えます。偉大な父を超えるという思いが根底にあったからこそ、すべてにおいて信玄を超える「実績」が求めれたのかもしれません。
信玄が落とせなかった城を落とし、領土をさらに広げた・・・これで慢心してしまったのか、長篠の戦いでは歴史的大敗北を喫します。普通であれば、ここで駄目になってしまうところですが、勝頼は様々な改革に乗り出し、武田家再建を見事になしとげます。武力一辺倒ではなかったことが、こういったことからも伺えますね。

【驚き3】勝頼の外交
長篠の戦い以後、実は信長からも破格の条件で和睦の使者が来ていたそうです。当時の信長は、毛利・本願寺・上杉といった強国を相手にしなければならず、できるだけ敵を増やしたくなかったのでしょう。しかし信長との和睦を断り、北条との同盟を結んだ勝頼。この選択が、後の武田家滅亡のキーポイントの一つになってしまいます。
上杉家の跡取争いで敗北した上杉景虎は、北条家ゆかりの者。勝頼はこれの援軍に駆けつけたものの、家康の侵攻により引き返せねばなりませんでした。そんな勝頼に対し北条家は「見殺しにした」と受け止め、武田家と北条家との関係が悪化してしまったそうです。
こうした結果、武田家は西の織田信長、南に徳川家康、東に北条氏政と三方から侵略されることになってしまいました。

【驚き4】高天神城見殺しによる家臣団の離反
徳川軍の攻撃にさらされていた高天神城に援軍を送らなかった結果、高天神城は落城。家臣も全滅してしまいます。これを見た他の武田家家臣達は、いっせいに勝頼に離反し、武田家は滅亡の道をだどってしまいました。
この「高天神城見殺し」ですが、実は高天神城から援軍無用の知らせが来ていたそうです。また敵方に対しても降伏の使者を送っていたのですが、
武田勝頼が高天神城への援軍を送らなかったために全滅した
という事実を作り上げるため信長は降伏を断り、その指示を受けた家康は落城へと追いやったそうです。その後、見殺しの一件を巧みな情報操作で広めた結果、武田家家臣の離反へとつなげた・・・という「信長の謀略」が背後にあったということが、一通の手紙の内容から読み取れたということが、今回放送されておりました。


あれほどまでに強大で強力な軍団をもった武田家が、信玄の死後わずか10年で滅亡してしまう。その原因には様々な諸説があるそうですが、今回の説もなかなか信憑性のある話だったなぁ~と感心してしまいました。
NHKのHPにいけば、今回の「武田家滅亡」についての詳細な情報およびQ&Aが書いてありますので、興味のある方はぜひ覗かれてみることを、お勧めいたします。

いやぁ、やっぱり戦国時代の話となると、こういった新事実が発覚するたびに、興奮しちゃいますね。とても面白かった「その時歴史が動いた」でした!





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Comment

[12]

>「信玄の遺言の中に『勝頼は信勝が16歳になるまでの代理である』とある」
 結局、この話はどうなったんでしょうね?
>長篠の戦い以後、実は信長からも破格の条件で和睦の使者が来ていたそうです。
 結果的にはこれも滅亡の一因となるのですが。武田家と織田家は前々から対立していましたし、信玄は京に旗を立てよと遺言していましたし、和睦を結んだところで信長が武田家を残したまま天下をとって満足するとは考えにくい。他に選択の余地は無かったような気もします。
>北条家は「見殺しにした」
西の織田信長、南に徳川家康、東に北条氏政と三方から侵略
 私としてはこの時が武田滅亡の決まった時かと思います。武田包囲網ができて一対三となってしまってはあまりに不利、重臣らが見切りをつける遠因になったのではないでしょうか。それにしても援軍も出さないで勝手に怒って同盟破棄してしまう北条氏って勝手ですね。 
>高天神城見殺しによる家臣団の離反
 降伏を認めないとは信長らしいやり口ですね。桶狭間で敵の情報を知らせた部下を第一に賞した信長ですから、この情報に尾ひれをつけてさかんに吹聴したのでしょう。

[13]

『その時』において出てきた様々な諸説についてはいろいろ異論があるようで、その事についても「その時」のHPにいけばいろいろなことが書いてありますよ~。(^^
「武田勝頼」といえば偉大な父とどうしても比較されてしまい、無能とはいわないまでもかなりの低評価を受けておりますが、その実態は、なかなかの人物であったかのように思っています。
長野を自転車で走った折に景徳院にもよりましたが、勝頼・北条夫人・信勝の3人が寄り添うかのよう墓が立っており、その周りを武田家家臣の墓が取り囲むかのように設置されておりました。盛者必衰の・・・という語句がありますけど、武田家もまさにそうだったんじゃないのかなぁ~っとちょっとさびしげに思えました。

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